かつて、養護学校で、こんなことがあった。
あるひとりの自閉症の女の子がいた。
自閉症の子には多いのだが、水遊びがとても好きな子だった。
それは、梅雨もまっ盛りの、どしゃ降りの雨の日だった。
僕が教室の窓から、外の庭をぼんやりと見ていると、その子が、どしゃ降りの雨の中
に、笑いながら立っているのが見えた。体操服のままで、ニコニコ笑った顔を上に向
け、手の平も上に向けて、立っているのだ。僕は、それを教室の窓から、
「ああ、気持ち良さそうだなあ…」
「あんなことできたら気持ちいいだろうなあ…」
と思いながら、しばらく眺めていた。
そのとき、ハッとして思いあたった。
彼女は、雨の中にたたずんで、雨にまみれながら、彼女は、全身で「雨を感じてい
る」のだ。それを教室の窓から「気持ち良さそうだなあ」と見ている僕は、「雨を理解
している」にすぎない、と思った。
僕は、心の中で、自問した。
「彼女と僕と、どちらが本当の体験に近いのだろうか?」
答えはすぐに出た。
世界を理解するのに、<広さ>と<深さ>という概念があるとしたら、僕よりも、彼
女の方が、遥かに<深い体験>として「雨」を感じていると思う。
小さい頃は、僕も全身で世界を感じていたはずだ。だが、成長するにつれて、いつの
まにか、「理解すること」が優位になってしまい、「感じること」をあまりしなくなっ
ているのではないか、と思えた。
元気なころの賢治は、しばしば冷たい雨の中を雨具もつけずに歩いて、
わざわざ、ずぶぬれになったりしていますが、そうしたほうが心象スケッ
チがはかどったからでしょう。「手簡」という短い詩も、やはりそのよう
な状態で書かれています。
雨がぽしゃぽしゃ降ってゐます。
心象の明滅をきれぎれに降る透明な雨です。
(『宮沢賢治の見た心象』 板谷栄城)
宮沢賢治は、きっと、雨にまみれていた女の子の気持ちが分る人だったと思う。もし
も、あの場面に宮沢賢治がいたら、きっと女の子と一緒になって、雨に打たれていたに
違いないと思う。
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