2013-03-18

 かつて、養護学校で、こんなことがあった。

 あるひとりの自閉症の女の子がいた。

 自閉症の子には多いのだが、水遊びがとても好きな子だった。

 それは、梅雨もまっ盛りの、どしゃ降りの雨の日だった。

 僕が教室の窓から、外の庭をぼんやりと見ていると、その子が、どしゃ降りの雨の中

に、笑いながら立っているのが見えた。体操服のままで、ニコニコ笑った顔を上に向

け、手の平も上に向けて、立っているのだ。僕は、それを教室の窓から、

 「ああ、気持ち良さそうだなあ…」

 「あんなことできたら気持ちいいだろうなあ…」

 と思いながら、しばらく眺めていた。

 そのとき、ハッとして思いあたった。

 彼女は、雨の中にたたずんで、雨にまみれながら、彼女は、全身で「雨を感じてい

る」のだ。それを教室の窓から「気持ち良さそうだなあ」と見ている僕は、「雨を理解

している」にすぎない、と思った。

 僕は、心の中で、自問した。

 「彼女と僕と、どちらが本当の体験に近いのだろうか?」 

 答えはすぐに出た。

 世界を理解するのに、<広さ>と<深さ>という概念があるとしたら、僕よりも、彼

女の方が、遥かに<深い体験>として「雨」を感じていると思う。

 小さい頃は、僕も全身で世界を感じていたはずだ。だが、成長するにつれて、いつの

まにか、「理解すること」が優位になってしまい、「感じること」をあまりしなくなっ

ているのではないか、と思えた。

  元気なころの賢治は、しばしば冷たい雨の中を雨具もつけずに歩いて、

 わざわざ、ずぶぬれになったりしていますが、そうしたほうが心象スケッ

 チがはかどったからでしょう。「手簡」という短い詩も、やはりそのよう

 な状態で書かれています。

   雨がぽしゃぽしゃ降ってゐます。

   心象の明滅をきれぎれに降る透明な雨です。

        (『宮沢賢治の見た心象』 板谷栄城)

 宮沢賢治は、きっと、雨にまみれていた女の子の気持ちが分る人だったと思う。もし

も、あの場面に宮沢賢治がいたら、きっと女の子と一緒になって、雨に打たれていたに

違いないと思う。