演劇の日常化 – 加藤衛(横浜演劇研究所長) – 横浜文化論 アマチュア演劇と横浜文化 市民による文化活動

演劇の日常化 – 加藤衛(横浜演劇研究所長) – 横浜文化論 アマチュア演劇と横浜文化 市民による文化活動

2024-02-04

横浜文化論 アマチュア演劇と横浜文化 市民による文化活動
加藤衛(横浜演劇研究所長)

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/shien/tyousakihou/11.files/0009_20191115.pdf

1.「文化」と「横浜の文化」

「横浜の文化」について考えるとするなら、先ず、「文化」とは何か、「横浜」のとか「平塚の」とか、そういう地名をかぶせた「文化」とはどういうものなのか、また、「日本」の文化、あるいは、文化一般と、それはどういう関係にあるのか、そこのところを明らかにしなければなるまい。

人間の創造活動とその所産、それは物質的、精神的両面にわたってのことだが、そのすべてを総称して「文化」と呼ぶことができよう。

ただし、それには一つの条件がある。つまり、それが「社会的」な価値をもつようになうた時、という条件。人間であるなら、だれでも日常的に、何らかの創造活動をいとなんでいるに違いない。しかし、それが、社会的な影響力をもたない限り、まだ、「文化」とは呼べないだろう。創造活動が個人的な意味しかもたないことがあるからだ。はじめは個人的な価値しかもたなかったものでも、それが社会的なかかりあいをもち、何らかの意味で、「社会的な価値」をもつことになれば、それは、「文化」の名に値いするものとなるだろう。この場合、その創造活動の行なわれた時代における「社会的価値」と、今日の社会とのかかわりから生れる「社会的価値」とは、当然区別して考えなければなるまい。人間は「生きる」のに必要とするものを、もはや、自然のなかに、そめまま、あるいは充分に見いだし得なくなると、その必要に応じて、自然を何らかの方法や改変しようとする。そういう時「創造活動」は行なわれる。たとえば、早い話が、道具の発見とか、山腹に穴を掘って住居を設けるとか、すぺて、「生きる」ための必要から生れた創造活動の結果といえよう。これらの創造活動の所産は、その時代の共同社会にとって、一つの社会的価値としての働きをもっていた。

それらの過去の時代の所産が今日発見されると、こんどは、今日の社会と、新しいかかわりをもつことになる。過去のそれとは、全く別の、新しい「社会的価値」がそこからは生れるかもしれない。また、過去め所産が、時代と共に、その社会的価値を変えつつ、今日に伝えられることもある。

いずれにしてもそれが生まれた時代の社会的価値と、今日の評価に従った社会的価値とは、当然、区別されていいわけだ。ところで、「社会的価値」ということをいったが、別のいい方をすれば、何らかの意味で、その社会に「生きている」ということでもある。「生きている」とは、それにふれた人間に、何らかの活力、生命のエネルギーを与える力をもっている、ということだ。

「文化」は「生きもの」なのだ。それが過去の所産であるか、今日のものであるか、それは問うところではない。「文化」とは、そうしたものだ。「文化」を、そうしたものとしてとらえるなら、「横浜の文化」、といったように、地名を冠した「文化」とは、いったい、どういうものなのか。

今日「横浜」と呼ばれている地域に残されている、あるいは伝えられている過去の時代の所産をいうのだろうか。しかし、「横浜の」とは、単に地理的、行政的区域を意味する「横浜」なのだろうか。とすれば、岡村に発掘された三殿台遺跡も、弘明寺というお寺に保存され、国宝に指定されている仏像も、三渓園の桃山時代の遺産もすべて、「横浜の」文化財と呼ぶことができる。しかしわたしは、これらのものを、いきなり「横浜の文化」と呼ぶことには、いささか、ためらいを感じないわけにはいかない。たしかに、これらのものは、文化史的に価値高いものではある。それ故に今日横浜に住む人たちは、その保存に、社会的な責任を負ふてはいる。しかし、そのことは「横浜の」文化財だから、というのではなく、日本の文化財としての価値評価に由来するものだ。

たまたま今日の横浜という行政区域内に発見され、あるいは、保存されている、ということでしかなく、横浜の市民生活とのかかわりからいえば、横浜市民は、必ずしも「横浜の文化」という実感をそこにもつわけにはいかないだろう。むろん、今日の横浜市民は、それらの文化的遺産にふれることによって、何らかの生命のエネルギーを、そこからくみとることはできる.だからこそ、文化財と呼ばれるわけだが、それは「横浜の」ということとは、何のかかわりもない.

ということは「文化」が問題になるなら、「横浜の」という「横浜」は、単なる行政区域を意味する「横浜」ではなく、横浜という地域に住み、横浜という土地に密着して「生活」をいとなんでいる「市民」による「生活共同体」としての「横浜」ということなのだ。

ここでいう「生活」が、単なる「動物的」な生活ではなく、「人間」としての生活を意味することは、いうまでもない。つまり、土地との関係からいえば、ただ単に偶然そこに暮している、というだけのことではなく、その土地に暮すことによって、その土地との直接的なかかわりが生れ、その土地に対して特別の意識をもつようになり、その同じ土地に住む人たちとの間に 「生活共同体」の成員としての共通の感情、意識が生れるほどに、その土地と「密着」して「生きる」こと、それが「生活」と呼ばれるものなのだ。その意味からすれば、浮浪者には「生活」はない。他の土地から移ってきたばかりの人たちには、「横浜」で「生活」しているという特別の意識──ということは、他の土地との区別意識のことだが──が生れるほど、まだ「横浜」という土地との密着度は強くはない。

「横浜」に「生活」していた、あるいは、している人たちの創造活動による所産を、「横浜の文化」と呼ぶなら、「横浜」の「生活共同体」としての出発、その発展過程が、実は、問題になるわけだ。エルンスト・グロ―セの考え方を引きあいに出すまでもなく,「文化」,つまり「生活」人の創造活動の所産は,その生活様式に,そして,生活様式は,その「生活」を支える生産手段に,依存している。「横浜の文化」ということであれば,横浜という「生活共同体」を支えている生産手段が,つまり,横浜という都市の性格が,「横浜の文化」を他のそれと区別するきめてとなる。横浜が都市としての出発をはじめたのは,港湾都市,貿易都市としてであった。当然,明治以後の西洋文化輸入の窓口としての役割を果たすことになった。それが,他都市と区別される,独特の「風俗」を生むことにもなった。西洋文化にふれる機会を,他都市よりも早い時期に,そして,数多くもつことになったからだ。しかし,それはあくまでも「風俗」でしかなかった。横浜に「生活」する市民の積極的な創造活動の所産というよりも,外的な刺戟から生れたものだったからだ。横浜の「文化」と呼ぶには,あまりにも根の浅いものにとどまっていた。市民生活のなかから,育ってきたものではなかったからだ。したがって,外側からのゆさぶりには,力弱くもあった。二度の大災害,つまり,関東大震災どいう天災,空襲という人災による大災害によって,その「風俗」は,根こそぎふきとばされてしまった。「文化」の生れる基盤としての「横浜」つまり,「横浜の市民生活」は,わずか,百年の歴史をもつにすぎない。その短い歴史のなかで,都市としての性格はむろんのこと,市民構成の面でも,著しい変化を経験せざるを得なかった横浜は,「文化」の名に値いするもの,つまり,他の地域のそれと区別される「横浜の」文化と呼ばれるものが生れ,育つ機会には、甚しぐめ、ぐまれていなかった,といっていい。横浜「市民」による積極的な創造活動め成果としての「横浜四文化」ということてあれば,それは,実は,これからのことなのだ。

2.横浜の文化はこれから生まれる

さて,これからのことということになると,今日の「横浜」を,どうとらえるか,そのことが、こんどは問題になる。横浜のような人口200万に近い大都市ともなれば,一個の「生活共同体」としてとらえることは,もはや無意味に近い。まして、東京を中心とする首都圏の一部として,東京の衛星都市化しつつある今日では,東京ときりはなし,「一地方都市」としてとらえることも,ほとんど無意味に近い。さらに,都市め性格からいっても港湾都市,工業都市,住宅都市といった,さまざまな面をもちっつある。このことは,大都市の免れ得ない運命だが,横浜には,それが典型的にあらわれているように思われる。たとえば,東京の衛星都市としての横浜を,新劇を鑑賞の対象とする観客組織に例をとって考えてみよう。名古屋労演は7、000の会員をもち,京都労演は6、000,神戸労演は5、000の会員をもっている。横浜め観劇組織フオルクスビューネは,わずかに1、800の会員をもつにすぎない。このことから,いきなり,横浜市民の観劇意欲の低さを,結論づけようとするなら,それは早計というものだ。いや,むしろそれら関西の諸都市の「中央」依存度は,それほど高い,と考えたほうが当ってるかもしれない。地方の諸都市は,東京の新劇団を迎える以外に,新劇鑑賞の機会をもつことはできない。それが,実情なめだ。そして,労演に入会していない限り,新劇に接する機会をもつわけにはいかない。関西の諸都市め労演会員の多いのは,当然なめだ。それどこちか,少なすぎる,といえなくもない。横浜の場合には,フォルクスビューネに入会していなくても,新劇鑑賞の機会はいつでも東京に見つけることはできる。会員数の少いのは,当然なのだ。いや,むしろそのような条件下々は、多すぎる,とはいわないまでも,決して、少いとはいえない。が,いずれにしても,それだけ,文化享受の面でも,横浜は,東京の衛星都市化への傾向を強めている,ということがわかる。もっとも,このことは、実は、横浜市民の「錯覚」ではあるのだ。それゆえ,地方の諸都市の「中央」依存とはやや異った意味で,「東京」に依存している,といえないことはない。もう一つの実例をあげるなら,労音の場合だが,横浜労音は1万7千の会員をもっている。が,人口30万の横須賀では,労音会員は4千人をかぞえている。その人口比からいえば,横浜労音は,2万人を越える会員をもっていてもおかしくはない。これは、一つの例だが,このように,東京とのむすびつきは強いし,したがって,あらゆる領域での,東京への依存度は高まりつつあるわけだが,そうなると,「横浜」をとくに特徴づける,地方都市としての性格を見つけることは,ますますむずかしい。その限りでは,とくに「横浜の文化」なるものを見いだそうとする努力は,無駄のようにも思われる。むろん,このことは,横浜だけに認められる特殊な現象ではない。近代都市の宿命ではあるのだが,ごとに,戦後の著しい社会的現象としての人口の都市集中化は,全国各都市に多かれ少なかれ「無性格」化をもたらしているわけで,さらに,印刷物,映画,ラジオ,テレビ等の発達普及は,ある意味で,つまり,精神的領域における現象面で,各都市の市民間の均等化をおしすすめ,その限りでは,各都市の特徴を弱めていることは,たしかだ。だから,「横浜の文化」とは,他都市のそれと,とくに区別される,いわやる「横浜的文化」ということではなく,「横浜市民」による創造活動の所産,ということになる。ここで「市民意識」の開題が浮び上ってくる。昭和18年には100万人を数えた横浜市の人口は,終戦直後には60万人に減少し、20年後の今日は,200万人に近づきつつある。さらに,6大都市のうちで,昼間人口が夜間人口より少ないのは,横浜だけのようだ。偶然,横浜の地に居住地を得た人,横浜とい,う土地をかりそめの居住地とみている人,そういう人たちが,どんなに多いかは,明らかだ。が,それにしても,横浜という土地に居住地を得たからには,やはり,その限りでは,横浜という土地に,何らかの期待をもたない人はあるまい。たとえば,道路や上下水道の整備といった,日常生活に直接結びついている部分には,住みはじめたその日から,強い関心が向けられるに違いない。このような関心は,いったんその期待が満たされると消えてなくなるほどに,甚しく「個人的」なものであるかもしれない。しかし,やがてその種の関心は,別の問題にかかわって,再び高まってくるはずだ。こうしたくりかえしが行なわれる限り,もはや,そのような関心は「個人的」なものにとどまっているわけにはいかなくなる。こうして,「個人的」な関心は,「社会的」なものへと発展して行く。そこに「市民意識」の基盤がつくちれるわけだ。むろん,その「市民意識」の強度はさまざまだ。しかし,その市民意識が,市民としての積極的な創造活動を刺戟することになるので,また逆に,市民による積極的な創造活動が,個々の市民の市民意識を高めることにもなる。

3.市民による文化活動としての演劇活動

ところで,ここでは,その市民による創造活動をごく限られた領域についてのみ,考えてみることにする。ここでどりあげる限られた領域とは,いわゆる「文化活動」のことだが,その「文化活動」も消極的なものと,積極的なものとに分けで考える必要があろう。前者を「受け手」としでの活動とすれば,後者は「働き手」としての活動,ということになろう。さらに話をわかり易くするために,当面の対象を「演劇活動」に限定することにする。「演劇活動」は,本来,「生活共同体」の端的な表現活動として、生活共同体意識の確認という意味をもっているからでもある。生活共同体,それが,どういう種類のものであるにせよ、たとえば,学校,職場,地域社会,といったように,何らかの意味で「共同生活」がいとなまれている場では,必ず「演劇活動」が行なわれているのは,それ故であり,それは「人間」としての「生活」の端的な反映なのだ。「受け手」としての「活動」と「働き手」をしての活動」とを区別したが,前者は積極的な観客として参加することによって行なわれ,後者は観客に「作品」を提供する創造活動として行なわれる。演劇は創造するものと,それを受けとめるものとの,直接的なかかりあいから,つまり,演技者と観客との直接的な共同作業によって生れるものであり,その意味で,観客として参加することもまた「創造活動」なめだ。それは,職業演劇であるとアマチュア演劇であるとを問わない。「演劇活動」は,それが,本来の意味での,市民の「積極的な創造活動」であるところに,意味があるので、ヨ-ロッパにおける初期め中世演劇や第二次大戦中の大政翼賛会による移動演劇,あるいはナチス・ドイツによるティングジュピールなどが,すべて失敗しているのは,演劇というものは,「上から与えられる」ものではないからなのだ。関東大震災までば,横浜にもいくつかの商業劇場が栄えでいた。横浜市民は「受け手」として、日常的に演劇を楽しむ機会にめぐまれていた。日本では演劇は「私的」企業としていとなまれでいる。したがって,安定した「商業的」基盤をもたない限り,劇場経営は不可能に近い。震災前め横浜には,それがあった。東京との距離は,それを可能にしていた。震災後,情況はやや変化したにもかかわらず,まだ,細々ながら,劇場経営は続けられていた。しかし,戦災後は、事情は一変した。このような現象面だけをとらえて,横浜には「演劇」は育たない,という通念が,行なわれることになった。ところが、このことは,もともと横浜だけにみられる特殊現象ではない。そめ意味からすれば,東京だけにしか「演劇は育たない」ことになる。演劇経営が,私的企業としていとなまれている限り,この事情は変らない。今日では,東京ほどに安定した「商業的」基盤を演劇が,他の土地に求めることは,はなはだしく困難なのだ。

「働き手」としての市民の「演劇活動」はアマチュア演劇の領域で行なわれる。この場合にも「横浜には演劇は育たない」といわれている。これまた,横浜の特殊事情とはいえない。第二次大戦終了まやの日本には,「アマチュア演劇の育つ」、基盤は,ほと、んどなかうた,といっていい。歌舞伎や新の物真似はあった。しかし,厳密にいえばそれらのいとなみは,アマチュア演劇とは呼べない。且那方の「お遊び」で七しかなかったからだよつまり,「演劇活動」ではなく,「お芝居ごっこ」にすぎなかった,ということだ。アマチュア演劇活動は,本来の意味での「生活共同体意識」から生れるものなめであり,自由な市民生活,真の意味の「民主々義」が,実は,前提条件なのだ。そのような社会的条件は,第二次大戦終了と共に、ととのいはじめた。本来の意味でのアマチュア演劇の歴史は,日本ではようやく,戦後にはじまったといっていい。その限りでは,横浜には演劇が育たないどころか,実は,立に育つことが実証されている。現在15年前後の歴史をもつアマチュア劇団が,横浜には四つも活躍している。こういうことは,全国でも珍しい。

4.演劇の日常化

ここで、「演劇の日常化」について,ちょっとふれておく必要があるかもしれない。演劇の日常化とは,日本の社会に、演劇を「日常的」に楽しむ状態をもたらすことをいうのだが,演劇を日常的に楽しむとは,「職業演劇」および「アマチュア演劇」の観客として,また,アマチュア演劇活動の主体として,演劇を楽しむ機会を,日常的にもつということだ。この「演劇の日常化」が,横浜の地に実現されるなら,まさに市民生活に根ざした「横浜の文化」の生れ,育つ条件は満たされることになる。というのも,「社会的行為」としての演劇活動が,健康に行なわれる社会なら,あらゆる領域での市民め積極的な創造活動に,充分な機会を用意してくれるに違いないからだ。演劇の日常化は,むろん,市民自身の積極的な努力によらな、ければならない。その努力は 一つは観客として,一つは創造の主体として行なわれるわけだが,前者は、たとえば,全国各都市における「労演」運動,横浜では「フォルクスビューネ」という観客組織による運動によって,後者は,アマチュア演劇活動によって,行なわれている。これらの市民による演劇活動は,むろん,「営利事業」ではない。当然,活動の場を,公共の施設に期待することになる。そのような市民の期待に応えることは,政府なり,地方自治体なりに課されている責任でもある。この領域への「税金」の還元は,当然のことなのだ。だから,国立劇場の設立なり,地方各都市における市民会館,文化会館の設置なりは,おそまきながら「お役所」が,ようやく,そこに気づいた,ということなのだ。いずれにしても演劇の日常化に際して,市民の「お役所」やの期待は,そこにある。そして,それ以上のものではない。「演劇の日常化」活動の本体は,あくまでも,「市民」にあるのだから。ついでにいえば、そのような公共の施設は,日本では,うっかりすると,「お役人」の自己満足の`対象になりかねない,ということだ。「お役人」の「私物化」といっては,いいすぎになろうが,俗ないい方をすれば,「金を出すから,口も出す」といった傾きが,その建設の過程にも,建設後の運営面にもみられる、ということだ。この11月に開場する国立場劇を例にとってみよう。そこでは「芸術上」の責任を負うべき「芸術家」が,その運営面では,ほとんど参加できないようなしくみになっている。国立劇場であるからには,常時,第一級の「演劇」が,上演されなければならないのだが,その上演の主体である「俳優」は,一人も用意されていない。その都度,商業演劇の側から「借用」することになっている。しかも,1年の半ばは「貸小屋」として経営される。経営上の事務要員の用意には,充分な考慮が払われていながら,「劇場」としてもっとも重要な「芸術」要員には,ほとんど,意を用いていない。結局は「お役所」の単なる「道具」としてしか考えられていない,その本来の目的は,全く無視された施設,それが国立劇場ということになる。たとえば,ドイツの公立劇場を参考までに,ひきあいに出してみよう。西ドイツのアーヘンという人口15万の都市には,市立劇場が2つある。「市立」劇場とは,劇場経営費の不足分を,市が負担することになっている劇場のことだ。もともと,「劇場」というものは,近代企業<つまり,ゼニもうけの対象としての企業>の対象にはならないものだ。映画のように大量生産は不可能であるし,人件費,製作費等を正当に支払うなら,とうてい,入場料収入では,そのすべてはまかないきれない。企業としては全く割のあわない仕事なのだ。ドイツではしかし,劇場は,市民生活に不可欠の「文化,教育,教養」の施設として,一般に認識されてる。ドイツの劇場めほとんどが,「公立」なのは、それ故だ。アーヘン市では,年間147万マルク<約1億3千万円/>,つまり,市の年間予算の3.1%を,劇場に支出している。さらにいくつかの例をあげるなら,人口37万のゲルゼンギルヒェンでは、171万3千マルク<約1億6千万円>,市予算の5.3%を,人口11万のマインツでは,190万マルク<1億7千万円>,市予算の5%を,劇場補助金として,支出している。ドイツの「公立」劇場は,すべて,この程度の補助金を,国なり市なりから受けている。ところが,その劇場の経営上,芸術上の責任は,いっさい「芸術家」<ふっう,演出家,俳優>のなかから任命された最高責任者が負うことになっている。つまり,国も市も≪金は出すが,口は出さない≫。日本では,公共の文化施設には,ふつう「運営委員会」なるものが,設けられている。しかし,この委員会なるものは,事務当局の独断的処理を「正当化」するための,外部への防波堤として,利用されている場合が多い。文化的施設が,実は「文化」以前の段階で運営されているのがふつうのようだ。これらの文化的施設は,「お役人」の「おもちや」として設置されるのではなく,市民の「文化」活動を刺戟し,「文化」活動に場と機会を提供し,市民の「文化」的欲求を満たすためのものなのだ。その意味から,昭和40年度横浜市予算にもりこまれた「アマチュア演劇のための小劇場」に対する補助金は,わずか500万円ではあったが,極めて重要な意味をもっていた。市議会はそれを否決したが,かえってそれだけに,いっそう「演劇の日常化」の重要性が,市民に明らかにされることにはなった。市当局のこの構想には,三つの点で,注目すべきものがあった。第一には、わずかな補助金によって民間施設を「公共施設」として利用できること。第二には,アマチュア演劇活動にとらて極めて重要な,「小ホール」が確保されること。第三には,「金も出すが,ロも出す」ほどには補助金の額が大きくはないこと。適当な活動の場所のないこと,とめ/こと宍は,デアチュア演劇の発展をはばむ,もっとも大きな障害の一つになっている。これは,全国共通の問題なのだ。アマチュア演劇にとって,目下のところ,何よりも重要なことは,「日常的」な公演活動な:のだ。さきにも述べたように,15年以上の歴史をもつ四つの市民劇団のほかに,いくっかの劇団が横浜市内では活動しているが,各劇団は年間2~3回の公演をもち,各公演毎に1、000人前後の観客を動員しているにすぎない。「演劇の日常化」のためとは,もらと積極的に,市民とのふれあいこを考えなくてはなるまい。それには,100人前後の「小ホール」による「小公演」活動こそ,効果的なのだ。このことは,全国めアマチュア演劇につる。ドイツの劇場めほとんどが,「公立」なのは、それ故だ。アーヘン市では,年間147万マルク<約1億3千万円/>,つまり,市の年間予算の3.1%を,劇場に支出している。さらにいくつかの例をあげるなら,人口37万のゲルゼンギルヒェンでは、171万3千マルク<約1億6千万円>,市予算の5.3%を,人口11万のマインツでは,190万マルク<1億7千万円>,市予算の5%を,劇場補助金として,支出している。ドイツの「公立」劇場は,すべて,この程度の補助金を,国なり市なりから受けている。ところが,その劇場の経営上,芸術上の責任は,いっさい「芸術家」<ふっう,演出家,俳優>のなかから任命された最高責任者が負うことになっている。つまり,国も市も≪金は出すが,口は出さない≫。日本では,公共の文化施設には,ふつう「運営委員会」なるものが,設けられている。しかし,この委員会なるものは,事務当局の独断的処理を「正当化」するための,外部への防波堤として,利用されている場合が多い。文化的施設が,実は「文化」以前の段階で運営されているのがふつうのようだ。これらの文化的施設は,「お役人」の「おもちや」として設置されるのではなく,市民の「文化」活動を刺戟し,「文化」活動に場と機会を提供し,市民の「文化」的欲求を満たすためのものなのだ。その意味から,昭和40年度横浜市予算にもりこまれた「アマチュア演劇のための小劇場」に対する補助金は,わずか500万円ではあったが,極めて重要な意味をもっていた。市議会はそれを否決したが,かえってそれだけに,いっそう「演劇の日常化」の重要性が,市民に明らかにされることにはなった。市当局のこの構想には,三つの点で,注目すべきものがあった。第一には、わずかな補助金によって民間施設を「公共施設」として利用できること。第二には,アマチュア演劇活動にとらて極めて重要な,「小ホール」が確保されるこ50いでもいえる。横浜市による「民間施設」の利用の構想が実現したなら,おそらく,全国各都市でも,市民の要求に従い,そのような考慮が払われることになったろう。独立の施設には,たとえ,それが小規模のものではあっても,億という金額を必要とするに違いない。わずか500万円の支出でその実が果せるなら,ごれは願ってもないことなのだ。全国ホール協会の調査によると,全国めこの種施設のうち500人以下の収容能力をもつもの25%,1、000人以下のもの32%,2、000人以下のもめ25%、2、000人以上のもの18%であり,最近つくられつつあるものは,ほとんど1、500~2、000人のもの,ということだ。この数字からも全国の文化的施設のほとんどが,アマチュア演劇の日常的活動にとっては,全く無縁に近いものであることがわかる。横浜のデマチュア演劇は,そのような施設を与えられたなら,飛躍的な発展をとげ得る,それだけの段階に到達している。毎年横浜で行なわれる「全国アマチュア演劇研究大会」の成功は,そのような基盤がつくられつつあることを,実証している。別のいい方をすれば,横浜におけるアマチュア演劇の活動は,全国のアマチュア演劇に,大きな刺戟を与えつつある,ということでもある。したがって、その意味からも,市当局による「小劇場」の構想は,大きな意味をもっていたのだ。「横浜の文化」とは,実は,こういうことなのだ。「アマチュア演劇」に関する限り,東京という土地には,その健康な発展は,期待することはできない。そして,横浜が,東京の衛星都市化しつつあるというこども,演劇に関する限りは,横浜市民の一つの錯覚でしかない。横浜演劇研究所の何度かの調査によって,東京の劇場へ積極的な観客として足を運ぶ横浜市民の数は,甚しく少いことが,明らかにされている。横浜に居住し,横浜に職場をもっている人には,東京まで出かける時間的,経済的ゆとりは,ほとんどない。ただ,東京へ出かければ,いつでも観劇の機会はある,という安心感はある。そういう安心感があるだけで,現実には,東京に観劇の機会を見いだしているわけではない。その安心感という限りでは,たしかに,横浜は,東京の衛星都市とい。うことにはなる。いずれにしても東京では実現され得ない健康な 「アマチュア演劇」活動を,「典型的」に実現しその影響を全国に及ぼす能力なり、基盤なりを,横浜がもちはじめていることはたしかなので,演劇の領域でいえば,それが,「横浜の文化」の特徴ということになろう。このような「演劇日常化」の努力がつみ重ねられていった時,横浜にもドイツの公立劇場の意味における「市立劇場」の実現は期待されることになる。「横浜の文化」を将来の問題といったのは,その意味からで,また,とくに「横浜の文化」をいうとすれば,それは,「横浜独自の」ということではなく,全国各都市の市民による「文化活動」に一つの大き、な刺戟を与える役割をになっている,という意味での「横浜の文化」ということになる。

もう一度いうなら「演劇の日常化」ということに関する限り,全国の典範としての「横浜の文化」,ということなのだ。ここでは,主として「演劇活動」を手がかりとして考えてみたが,市民の積極的な創造活動としては,演劇活動がもっとも「典型的」なものの一つと思われたからだ。