読書 別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ

読書 別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ

2018-12-07

難解なイメージの別役実作品

今年に入って別役実作品が周りで頻繁に上演されている縁もあり、何本か見てきたのだけど、どうも難解だ(何回観ても難解だ)。もう苦手の域にまできつつある。

しかし、演じてみたいと思わせる奥深さがあるのも魅力であり、なんとか理解を試みたいと思っていた。

演劇は観るものでなく、するものである。

そこで出会ったのがこの本


「別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ」(白水社)

帯に書いてある文章を見出しにしてみたのだけど、たしかに、演劇って観るよりやるほうが面白いのは実感する。

この本は、別役さんが兵庫県立ピッコロシアター付属の演劇教室で話されたものが基だという。

あとがきにはこう書かれている。

演劇は、専門家である舞台人といわゆる素人である観客とに分かれ、その間の中間的な存在が少ない。

私はこの「中間層のための演劇」を、この教室で確かめてみたかったのである。

この考えを軸に、演劇を仕事にせずとも、一般教養として演劇を知るためにも、「観る」のではなく「する」ことが必要だという趣旨だ。

中間層、これは私のことではないだろうか、ふと思う。劇団を名乗っているが、それを仕事にするわけではなく、専門の舞台人と名乗るのはおこがましく、素人の観客と名乗るほど卑屈ではないからだ。

バチっと、本の趣旨と私の関心がハマった。

先に進もう。

舞台に立ち、身体を取り扱う

演劇は、役者が舞台に出てきて、台詞を言い、そして舞台から去って行くのが、ひとまずの定石だ。

慣れないうちは、ぎこちない動き、手が震え、足がガクガク、視線はどこかへ行ってしまい、自分の台詞の時以外は何もせず、今度は自分の台詞を忘れて相手がなかなか次の台詞を言えないなど、みっともないことのセールのようだ。

慣れてくれば、スムーズに出てきて、台本に書かれている動きと台詞で物語を進行していくことができる。

さぁ、もう立派に演劇ができるぞ!と、思っていたら大間違いだよ大馬鹿者という声が、本からうっすら聞こえてくるような、別役流の綿密な解説だ。

ここで全部を書くことはできないが、いくつかの要点をあげれば、、、

    • 

    • 観客の視線を全身の皮膚感覚で感じ取る



    • 身体を弛緩させ、それを大きくまとめあげる集中力を途切らせない



    • 空間の固有の速度



    • 舞台空間は、物理的空間であると同時に観客の思いに支えられた心理的空間でもある。



    • 上手から下手へのゆるやかな風



  • etc

〜「別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ」(白水社) 14から16ページ 演劇の中へ〜 より抜粋

ただ出てくるだけでも、役者はこんなにも様々なことを無意識に行っているとつまびらかにして書かれている。

別役先生、とてもわかりやすいです。

わたしは、次の項目が特にお気に入りだ。

舞台における立体化とは何か

よく舞台人からこんな言葉を聞くことがある。

戯曲を立体化する、立体的にする、立ち上げる。

本に書いてある文章が、舞台上に表現されれば、もうそれで立体化じゃないかと、そう思っている時期もわたしにはありました。

しかし、そうじゃないんだと、なんとなくこれまたぼんやり思っていたことが、別役先生のおかげでクリアーになった。これは引用というより、自分で咀嚼して書くことで理解できたかを確かめてみる。

体験こそが演劇の価値である前提で進めると、舞台空間に物理的に存在するモノ(小道具や人間)を観客が見たそのままで理解したとすれば、それだけでは体験には繋がらないため、観客を劇中に誘う媒体者としての役者の仕事は、そこにある空間とモノをどうやって観客にも実感させるか、が、演じる技術といえる。

机も椅子も、リンゴも、役者がそれと意識するにしろ無意識にするにしろ、視線と距離と動きを駆使して、プロセニアムという額縁の中の絵、つまり舞台空間を「線」「面」の状態から「奥行き」を感じ取らせる演技を選択しつづけなければならない。

役者がリンゴを指して「これはリンゴだ」と言い切れば、もうそれはリンゴというだけの記号になり、それ以上の体験を得ることはなく、「これはリンゴ…なのだろうか?」と疑いをもってはじめて、観客が役者とリンゴの双方を見ることで、人とモノの距離感から、そこからほのめかされるリンゴと人間の背景にまで推測や想像が働きはじめる。

戯曲においては台詞が指定されているため、これはリンゴだ、と言い切らねばならないのだが、ここで理解したいのは、リンゴとその周りにあるモノ、そして媒介者としての役者が、ただの認識を越えて実感を伴う表現を、所作や発話を通じて模索検討しながら、作り上げることが、立体化なのだ、ということ。

…なのかなぁと、ひとまず先に進む。

 

これから台詞の発し方に移っていくもよう

この時点で186ページ中の61ページ目である。
まだあるのだ、別役先生の演劇論が。ここから始まるところに、この本が気になった理由の一つが記述されている。それはなにかというと、

棒読み

である。
前にいた劇団では、本が決まって製本をして、さぁ読んでみましょうといったときに、決まって、抑揚をつけず、演じず、ただ淡々とゆっくり読み上げる時間が設けられていた。

当初その意図を図りかねていて、年月が経つにつれ、なぜこの退屈な時間を設けるのかと、そういう不満が漏れだした。そこで別役先生の言葉を読んで合点がいった。

1)人が言葉を話すときには、その人の考えが現れるため、与えられた言葉を発話する違和感について、馴染んでいく過程が必要であったこと。

2)しかし、現代ではすでにある言葉を借りて選び並べ発話することに抵抗はないため、与えられた台詞を話すことにも違和感はない。

1)の前提があったうえで棒読みが必要であったが、現代では2)のような状況のため、棒読みをする必然性が感じられない。ということで、旧来の読み方で拘束されることが、現代の人間としてはとても窮屈で、楽しいものではなかった、と。

だがしかし、それでもなお、別役先生は、こう続ける。

こうした事情はあったとしても、「棒読み」という過程は踏んだ方がいい。かつては、そのようにして「異物」としての言葉を、身になじませようとしたのだが、今日では逆に、そのようにしてそれが「異物であることを、気づかされるからである。
〜「別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ」(白水社) 83ページ 言葉を取り扱う 棒読み〜より

こういった意図があり、そう説明を勧められていたのかもしれないが、当時を振り返ると単純に棒読みをすることだけをなぞっていたように思う。そこから、この本への信頼度が増したことで、食い入るように読んでいる。

今まで漠然と感じていたことがことごとく言葉になって理解できる快感

動くこと、話すこと、舞台に立つこと、演劇をするということ、その一つ一つ、ごく丁寧に専門的な演劇論ではない程よい距離感で解説がはいることで、難解と思われていた別役作品の世界観もすっと浸透していくような気がしてくる(違和感、異物感があることを踏まえ)。

思考、行動の言語化を突き詰めていった結果、その先にある「試み」を読み解けば、そこには非常にゆたかな演劇体験が待っていることに、期待に胸を膨らませる自分がいる。

演劇的快感

最後に快感つながりで演劇的快感について書かれていたことを引用して結びにつなげたい。

演劇は、「演劇的快感」を得るための手作業である。〜
ただ「快感」を「快感」として感じとる体質が、多様な状況の中で麻痺し、素朴ではなくなったということで、それをそれと定めがたくなったということであろう。
〜「別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ」(白水社) 185ページ あとがき〜より

常々、その演劇が始まる前、始まる瞬間、そして数分経ったときに、どういう心構えなのかによって、面白く観られるかどうかが変わると思っていて、それはつまり、作品鑑賞方法の話になってしまうのだけど、この作品、もしくはこの団体、この環境のどこに着目して乗っかれば面白がれるのか、その拠り所を意図的に配置しておくことが、娯楽としての責務なんじゃないかと考えていたのだけど、なかなか、ここのこの部分が興味深く、その背景にはこういったことがあって…などとは、案内されないものである。

なぜならネタバレになるわけで、未体験、サプライズを求め、刺激を求める傾向にあれば、なおさら、何がこれから行われるのだろうかと、期待させ、ワクワクさせることを拠り所にして、作品に乗っかってきてもらいたいとする考えが常にあるのではないか。

別役先生のような大御所作家が、21世紀になり、自身の作品を通じてやっと作品の面白がり方を語りだしたのは、そうでもしないと、閉塞していく現代の演劇事情と、情報化社会に取り込まれて、演劇的快感が損なわれていくことを危惧したのではないか。

だからこそ、中間層が良い鑑賞をするには、中に入り、演劇をする必要がある、と、そういう意図が本書の目的になっているのである。

総論:別役作品の読み方が変わる、かもしれない

ストーリーとその中で描かれている人間の造形を、ここに書かれたものを踏まえて上演することで、もっと面白く感じられるのかもしれないな、と、作品の見方、やり方が一変するような別役作品演出プランノートと呼べる一冊だ。

余談

別役さんの娘さんが、デイリーポータルZのウェブマスター林雄司さんの奥さんだと知りビックリ。