第17回かながわ演劇博覧会感想 ディレクターズカット

役者としても久しぶりの演博、これをきっかけに演劇を再開しようと目論んでいました。
前年から準備を進め、第1稿を書き上げたのが2020年1月の終わり。次第に新型コロナウィルス感染症がニュースの中心になり、仲間とも上演できない可能性についての話題が挙がるようになる。やむを得ない。覚悟はしていた。演劇という表現は、どれだけ完璧に準備をしても、幕が降りるまで何が起こるかわからないのだ。ならば誰かが幕を降すまでやれることをやろう。完成を目指して準備をすることも充分に創作活動だ。
知らせを受ける前から、たとえ中止になったとしても、予定日数の稽古を続けるつもりでいました。

本番2週間前を切った稽古中、かながわ演劇博覧会の中止のお知らせが届きました。
覚悟はしていたものの、やはりショックはあります。しかし、スタッフの皆様、実行委員会の皆様が上演可能性を探っていただいたおかげで、観客は関係者限定、1回のみの上演という内部発表会の形式が採られ、結果的に「最小の労力で最大の効果」を体現した美しい舞台に立つことができたのです。
建て込み日は進行が早く、合理的で素晴らしかった。一部を挙げれば、袖幕は文字通り幕を吊るすのではなく、黒い板を立てる設計。改装されたHIKARIの黒い床と黒い壁がすでに小劇場の空気を放っていることをよく理解したプラン。音響面では、追加2台のスピーカーを舞台側に向けて設置、本番で効果音が聞きづらい、といったことがなく助かりました。照明は地明かりのみとの事前連絡がありましたが、実際はシーリングやスポットも設置されていました。
等々、規模縮小を感じさせない、従来開催と遜色のない舞台を作っていただきました。
スタッフの皆さんのおかげで、稽古の成果を成就することができました。この場をお借りして、再びお礼を申し上げます。ありがとうございました。

今回上演した一人芝居は「時間とは何か」をテーマに、やりたいことをやろうと詰め込みました。
「時間」を考えるために、宗教や哲学や科学の知見を骨格にして散文的にアイデアを膨らませました。企画当初から舞台上のイメージが先行していたので、映像と1人のオッサンの身体を使い、不穏で奇妙な味わいの作品にしたい狙いがあり、物語は細部から全体へと組み立てる、建て増し方式で書きました。
元々の着想の一つに、聞こえない人のために字幕を用意する裏テーマを設けたのですが、これが役者の私を苦しめる。最後まで字幕の表示タイミングに振り回されてしまい、到達したい演技を表現しきれなかったのが悔やまれます。一方、その字幕や映像で投射されたカウントダウンに四苦八苦するオッサンの姿を見せることも狙いの一つであり、1勝1敗、と自己採点。
ちなみに、当日投射した映像は、字幕と画面効果と音がセットになっているので、カラオケ演劇が可能なのです。最低限、薄暗い場所とプロジェクターがあれば1人でできます。照明があれば尚良いです。どなたか演じてくださると幸いです。

最後に、今回と今後の社会状況について。
終息の気配どころか、拡散が続く新型コロナウィルス騒動。後ろ向きには「なぜ今なんだ」「なぜ私たちなんだ」と憤りと悲しみでストレスフルな日々ですが、前向きに捉えれば、価値観の転換、パラダイムシフトを同時代に遭遇できる機会なのではないか。
社会問題は創作に影響を与え、そのまた逆も然り。私たちはこの騒動から何を考え得たのか、次のかながわ演劇博覧会ではどんな表現を観ることができるのか楽しみです。
少しの負担で演劇を上演できる場が提供されているのは非常にありがたいと感じました。次回演博では、また新しい団体が参加し、常に新鮮な演劇を見ることができる場になって、今後も更に発展していくことにも期待しています。

それまでどうか、みなさんご無事で。また劇場でお会いしましょう。