観劇感想 ヤニィーズ「オイテイク。」第19回かながわ演劇博覧会 2022年3月13日16時

観劇感想 ヤニィーズ「オイテイク。」第19回かながわ演劇博覧会 2022年3月13日16時

2022-03-20

基本情報(チラシより)

ヤニィーズとは

2001 年劇団東京乾電池在籍中に同期メンバーにて結成。
「切ない喜劇と少し笑える悲劇」をテーマにした物語で上演を続ける。
Twitter:https://twitter.com/037fxZAlNQK8hFQ

作・演出

木村卓矢

作品紹介

活動再開にあたり、活動拠点を地元・神奈川に移して初の公演となります。「共に生きる」をテーマに、障がいのある息子と一緒に暮らしている老夫婦の物語です。体のあちこちが利かなくなり、痴呆も始まり、それでも一緒にいたいから…

ネタバレ含む感想

ウソにホントを宿す舞台総合技術と演技

ヤニィーズさんの「オイテイク。」は、ウソ(※)にホントを宿す高度な演劇センスで、ある一家の生活空間へと誘われる。

開演時間、心地よい音響とともに客席の照明を緩やかに変化させ、客席最前列の明かりだけほんのり残し、いそがずゆっくりと暗闇を待つ。これからの物語のリズムとムードを予感させる。

舞台が明るくなり、寝転ぶ男性が目に止まる。その周辺には日用品があちこちに置かれている。背もたれ椅子、テーブル、筒型のゴミ箱、ティッシュペーパーセット、座布団、オムツ、下肢装具、車椅子。抽象舞台のように配置された装飾美術の日用品は、登場人物逹の生活とその背景想像させる効果があった。

下肢装具と車椅子や発話によって、男性には障害があり、歩行ができない。だから彼は寝そべっていることがわかる。そこにやや老人を象徴化した女性と男性が現れる。

といった流れの冒頭、ウソ(=役者が演じている)と思って見ている私は、そのウソをどうやって受け入れようか準備をする。

受け入れるには、芝居のディティール(発話声量、所作、視線)や、その世界観を安定して演じ続けている、などの作品に乗るための架け橋を探すのだが、全く不安はなく、かなり早い段階で、役者を信頼して目と耳と身を委ね、彼らの生活を覗き見る準備が完了した。

老夫婦の発話や仕草が面白風味なことにすっかりガードが下げられる。これから語られるであろう、障害を持つ息子と老夫婦の葛藤の予感を忘れ、今、目の前で起こっている出来事をほほえましく見た。

余談:(※)ここでいうウソは

表現はだいたいウソであると考えます。ウソだからこそ、表現に合わないノイズを排除するため、ある要素には正しさを持ち込み、物語のリアリティを担保する。

リアリティは、表現したい作品が求める要素を、技術面、金銭面、物質面、時間制約上のバランスでもってリアリティラインが定められるので柔軟性があります。

リアリズムは、客観的に誰もが同じ認識を持ち、現実的、写実的、実際的なものになるので、表現の柔軟性よりも「正しさ」が優先されるので敷居が高い。ただ成功すると物凄い(クリストファー・ノーランや、キューブリックの映画作品も、リアリズムだと思う)。

重い題材を優しい手触りで届ける日常系4コマ漫画のムード

物語はゆったりと、食事、仕事、日課が描かれる。ワンシーンワンシーンが、小さな葛藤や、上手くいかなさを孕んでいて、日常系四コママンガのようにオチをつけながら連なっていった。

私が好きなシーンをいくつか。

  • 母親、痰が絡んでゴミ箱にペッと吐き出すつもりが入らず。床にこびりついてしまった痰を掻き出す。それを見ている息子。
  • アメコミヒーローの玩具を買ってきた父親。息子にねだられ、代わりにアメコミヘルメットを被り、ヒーローになって部屋の中を動き回るが、腰を痛める。
  • ヨーグルトを求める息子。母親がスプーンで口に運ぼうとするが、父親と会話に夢中になる。なかなかヨーグルトを口に運んでもらえない息子。その仕草が可愛らしい。

具体的に物語を展開する要素ではないものの、彼らの微笑ましい日常を通じて、障害や老いた生活が、重く辛いだけではないんだということを明示していた。

だからこそ、過去と理想がまじった後半が切ない。

作家の想いがしっとり染み入る

後半。このあたりから、私の中でシーンの前後感覚が薄れていく。過去と理想とがないまぜになって、ある種の浮遊感を伴い舞台と客席との境界線も曖昧になる。

口論が発展し、母親が息子を産むんじゃなかったと心情を吐露する。息子は泣き叫ぶ。危機や危険を感じさせるサイレンのような効果。

父親が胸を押さえて倒れるように座り込でいる。その後には、医師のシーン、夫婦で産むか産まないかを話しあうシーン、ミラーボールの光の下で夫婦がダンスを踊るシーン、息子の症状が緩和して立ち上がっているシーンなどが、次々とフラッシュバック的に浮き上がる。

走馬灯のようでもあり、辛いことがあった時に何度も繰り返し見た夢なのかもしれない。

演劇のもつ虚構性を活かしながら、現実(観客席にいる私)と舞台上の3人とが一体化したような地続きの感覚がした。これは彼らの物語ですが、私の物語でもあったのかもしれない。そう錯覚するくらい、彼らの記憶、夢、理想、そうならない現実に、共感を超えた何かが芽生える。

感覚は異なれど、多くの方がTwitter上で感想を呟くなど、作家の想いがしっとり染み入る作品でした。

次の舞台

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